Monsieur・de・ Paris  国王を処刑した男

フランス

「どうかお許しください。ムッシュウ。わざとではございません。」そう言い残してマリーアントワネットは処刑台に向かった。

「私の血が、あなた方の幸せを確固たるものにしますように。」国王ルイ16世は民衆にむけて言った。

そして彼パリの死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」シャルル・アンリ・サンソンは国王・王妃の

首をはねた。

民衆は自由と平等、友愛に沸いた。

パリの死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」として、

国王の首をはねたサンソン家4代目当主シャルル・アンリ・サンソンとはどういう人物だったのだろうか。

呪われた一族

死刑執行人。

それは人を殺める者であり、自らの手を血に染める者である。

人々はそんな彼らを忌み嫌い、避けた。

サンソン家はパリの郊外に家を構え、処刑の職務をする時以外はひっそりと暮らしていた。

彼ら死刑執行人は社会から隔離され人々と関わることは少なかった。

生活については国から年俸が支給され、代々財産を築いてきたので困ることは無かったが、

社会から除け者にされるというのは当然いい気分ではなく、サンソンは差別がなくなり平等がもたらせることを望んでいた。

人の命を救う死刑執行人

死刑を行うというのは誰にでもできることではなく、ある時サンソンの助手を名乗り出た若い青年は極度の緊張状態に晒されたことによって失神し、死亡してしまった。

そんな死刑のプロであるサンソンは人体の構造についても詳しく知っていた。

人体の構造を知らないと死刑を上手く行えないからだ。

人体の構造に詳しいためサンソン一族は医者としても活動していた。

人の命を奪う者が、人の命を救う。

不思議なことに聞こえるが何もおかしいことではない。

人体の構造に詳しいためどこを治療すれば人を救うことはできるのかということはサンソンが一番よく知っていた。また、代々人の人体や治療法をまとめた書物がサンソン家には受け継がれていたため、サンソンは本業の医者よりも腕が良かった。

サンソンは貧しい人々には無償で治療を施し、治療した人々からは感謝の気持ちをむけられ、

敬愛されていた。

国王ルイ16世という男

フランス国王ルイ16世。

革命によって処刑された男はどういう人物だったのだろうか。

よく贅沢三昧をしてフランス革命を引き起こす原因となったと思われることが多い彼だが、

教養のあふれる人物であり、刑罰の人道主義化やカトリック教徒以外にも戸籍上の身分を認めたことなど、善意に満ちた政治をして、革命前までは国民からも絶大な人気を得ていた。

また、ギロチンの刃の角度を調整して死刑を受ける人が楽に死ねるようにしようと提案したのも彼だった。

サンソンも国王を敬愛し、最後まで処刑されることを望んでいなかった。

起こらなければならなかった革命

ではなぜ革命は起こってしまったのか、

それは単純にいつかは起こるものだったからだろう。

ルイ14世の頃のヴェルサイユ宮殿建設による財政の悪化、身分の格差などの原因が相まっていよいよ国家は限界を迎えていた。そしてついにルイ16世の時に崩れてしまった。

そこからはもうどうすることもできなかった。

革命の荒波に飲まれ、国王は革命が推し進められていくのをみているしか無かった。

人々は最初は「自由と平等が得られる」程度の楽観的な考えを持っていた。

だが、革命とはそんな単純なものでは無かった。

狂ってゆくフランス

サンソンも最初は革命に賛同して歓迎していたが、その考えを改めることになる。

「九月虐殺事件」というものを知っているだろうか。

この事件はフランス革命の最も暗い負の部分とされている。

この事件は外国の軍隊がフランス領に侵攻してきたことが引き金となった。

プロシア軍がフランス領ヴェルダンに侵攻しフランスは混乱に陥った。

そして、「牢獄に収監されている政治犯がプロシア軍と内通してフランスを売ろうとしている」

という噂が人々の間で囁かれるようになった。

そして民衆は、プロシア軍の前に自分たちの国にいる敵を排除することを決意した。

民衆は牢獄に攻め入って囚人たちを次々と虐殺していった。

その場で即席の民衆裁判が行われたが、ほとんどの場合全会一致の死刑判決で、

死刑判決を受けた者は民衆の手に引き渡され、人々はサーベルや槍で彼らを切ったり刺したりして集団で虐殺した。

虐殺された人達の中には政治犯以外にも牢獄を警備していた衛兵や貴族などもおり、一般の人々も多く虐殺された。

虐殺者達は初日こそ裁判によって死刑判決を下していたが、そのあとは無差別に虐殺を行うようになり、中には虐殺された者の金品の略奪を行う者も多くいた。

虐殺者達はフランスの敵という名目で大勢の人を殺し、自分たちの行為は正当な行為と信じ切っていた。

サンソンは彼らの行為に激怒した。自分が死刑を行うのは国の正式な命による者だが、

自分達死刑執行人を普段忌み嫌い罵る人達が、自分勝手に大勢の人々を殺しているのを見て、

なぜ彼らは普段自分に忌み嫌う視線を向けることができたのかという気持ちになった。

この時はもうすでにサンソンが革命初期に思っていた自由と平等を快く迎え入れる気持ちはなくなっていた。

ルイ・カペーの処刑

革命の中で国王の王位廃止が決められ、元国王「ルイ・カペー」となった男は、

フランスが「王家のもの」から「国民のもの」になったことへの象徴として死刑にすることが決められた。死刑にすることはないのではないかという意見も多かったが、僅かな票差で死刑にすることとなった。

そして、ルイ・カペーの死刑を執行するのは他でもない「ムッシュー・ド・パリ」であるサンソンだ。

サンソンは最後まで死刑に反対していた。

行き過ぎた革命を治めるためにはそれこそ国王という存在が必要なのではないか、絶対王政ではないにしても国王と民衆が力を合わせて新しいフランスを作れば良いのではないか、そう考えていた。

だが、執行の日がきてしまった。

そして、サンソンの手でギロチンを落とす紐が引かれ、ルイ・カペーの首は落とされた。

民衆は歓喜し、サンソンはただ呆然としていた。

その後サンソンはパリの外れで10年近く元国王のためにミサを捧げていた。

革命は正しかったのか

元国王が処刑された後もなお処刑は続いた。

元フランス王妃マリー・アントワネット、「暗殺の天使」と呼ばれたシャルロット・コルデー

革命を指揮し後に恐怖政治を行ったロベスピエールなど、実に2700人あまりの人々が処刑された。

その中には無実の人も多く含まれ、幼い少女もいた。

この少女は「これでいいですか、死刑執行人さん?」と言って自ら進んでギロチンの上に横になった。サンソンは幼い少女までもが革命に巻き込まれて処刑されることを嘆き彼女を処刑した後数日間は手が震えて処刑を行えなかったが、職務をまっとうするために処刑をやり遂げた。

なぜこれほど大勢の人々が殺されなければならないのだとサンソンは葛藤したが、

処刑執行人である自分は人の命を奪うことしかできなかった。

シャルル・アンリ・サンソンの最後

その後サンソンはナポレオンに謁見するなどしたが、

晩年は息子に家督を譲ってひっそりと暮らしていた。

そして、人の命を奪い続ける苦しみに悩まされ続けた彼は、死刑制度が廃止されることを望みながら、静かに息を引き取った。

参考書籍


死刑執行人サンソン 国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書) [ 安達正勝 ]

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