今川義元〜新たな時代に敗れた海道一の弓取り〜

戦国

今川義元。

桶狭間の戦いにて、25000余の兵を持ちながら、僅か5000の織田軍に敗れた武将。

よく間抜けな愚将の代名詞として扱われることの多い彼だが、彼は本当に愚将だったのか。


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今川義元の生い立ち

今川家は足利家の分家であり、名門とされていた。

そして今川義元は1519年今川氏親の5男として生まれた。

その後京都から招かれた太原雪斎という僧から教育を受け、6歳で仏門に出された。

義元は太原雪斎と共に京に上り学問に励み、学識を深めた。

しかし2人の兄が急死したため、義元が家督を継ぐという話になったが、他の兄弟との家督争いが発生し、これに勝ってようやく今川家3代目当主となった。

ここから義元の武将としての生涯が始まる。

海道一の弓取り

義元は先代からの領地だった駿河・遠江から三河にまで進出し、

東海3国を支配し、「海道一の弓取り」と呼ばれるようになる。

「海道一の弓取り」は「海道」は東海道を指し、

「弓取り」は弓が上手いというわけではなく「武将」という意味にあたる。

つまり義元は「東海道で一番強い武将」と称された。

駿河・遠江・三河は米の生産量は少なく100万石に満たなかったが、

金山が多数存在した。よって今川家は莫大な財を築くことになる。

これによって今川は武田・北条などと同等の力を持つことになり、

「天下で一番上洛に近い男」と呼ばれるようになる。

上洛とは京に上ることをいい、武将たちは将軍家の権力を利用しようとした。


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甲相駿三国同盟

義元はその後武田晴信と北条氏康との間に「甲相駿三国同盟」を結ぶ。

甲は甲斐、相は相模、駿は駿河を意味する。

これによって義元は同等の武田・北条と争うことなく、上洛に大きく近づくことになる。

また、この同盟を発案し纏めたのは太原雪斎である。

桶狭間にて死す

そうして上洛の準備を進めてきた義元は上洛への最大の障害であった尾張攻略に動き出す。

尾張を治めている武将こそ織田信長だった。

今川と織田は信長の父の代から争いがあり、義元にとって因縁の相手なっていた。

そして尾張侵攻を進め丸根・鷲津を攻略する。

その後義元は桶狭間で一時の休息を取る。

誰もが義元が勝ち織田は滅亡するだろうと思っていた。

そう、信長以外は。

桶狭間にて突然視界を妨げるほどの豪雨が降り、(霰や雹だったという説もある)

そこに織田軍が突如奇襲を仕掛けてきた。

今川軍は混乱に陥り、義元も必死に応戦するが、

ついに毛利良勝という武将に斬り伏せられ、

今川義元、桶狭間にて討死。

まさに新たな時代の流れが始まった瞬間だった。

その後信長は義元の刀に「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」

と刻んで敬意を示し、本能寺にも持って行っていた。


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今川義元という男

その敏腕によって領地を広げ、「海道一の弓取り」と称された今川義元の最後はあっけないものだったが、

その影響は各地に及び誰もが驚愕した。

それほどまでに彼は他の武将達から評価を受けていた。

織田信長という新しい時代が訪れなかったら、彼が天下を取っていたかもしれない。

参考書籍


一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 [ 山崎 圭一 ]

現代語訳 信長公記 (新人物文庫) [ 太田 牛一 ]

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